青春シンコペーション


最終章 回転扉の向こう側……(1)


彩香に迫られて、井倉はもう覚悟を決めるしかなかった。
「はい。駆け落ちする方にします」
それだけ言うと、心臓が飛び出しそうな勢いで打ち、頭の中が真っ白になった。
「じゃあ、明け方4時に決行しましょう」
「4時?」
「夜明け前にここを出なきゃ……明日になれば、きっとお父様はわたしを迎えにやって来るわ。その前に出るのよ」
「でも、始発の電車があったかなあ」
「そんなの何とかしなさいよ」
「え? でも……」

井倉の頭は混乱していた。
(彩香さんと……僕が駆け落ち……まだ、何も準備ができていないのに……。手紙書かなきゃ……。それに着替えをバッグに詰めて、それから、ハンス先生にもちゃんと挨拶しないと……)
「じゃ、明日」
そう言って彼女は扉を閉めた。

(どうしよう。駆け落ちだ。駆け落ちするのに必要な物って何だろう?)
彼は取り合えず、部屋に戻ると、バッグに着替えを放り込み、それから、楽譜を入れ、ポケットティッシュやハンカチやメモ帳とボールペンを入れた。井倉の持ち物はそれで全部だった。
「そうだ。ハンス先生に書き置きを……。いや、駄目だ。ハンス先生は手紙読めないし……黒木先生に頼んだ方がいいかな? でも、大事なことだし、やっぱり直接伝えよう。きっとその方がいい」
井倉は意を決すると階段を降りて行った。

「ハンス先生」
井倉がリビングに入ると彼はソファーに座ってテレビを観ていた。が、そのバラエティーの内容が気に入らなかったらしく、むすっとした顔をしていた。テレビの中だけが勝手に盛り上がって笑い声で溢れている。

「ああ、井倉君、丁度いいところに来ました。オセロゲームやりませんか? テレビがつまらないんです」
「あ、はい。いいですけど……」
井倉はタイミングを逸してしまったが、取り合えずゲームをしてからでも遅くはない。それに、自分がいなくなってしまったら、誰がハンスのオセロの相手をしてやるのだろうと思うと妙に切ない気がした。
(でも、僕なんかいなくても、美樹さんや黒木先生がいる。それにヘル バウメンだって……。だから、きっと大丈夫だ。それよりも、僕はこれから彩香さんと駆け落ちするんだってこと、早く伝えないと……)

上の空でコマを置く。
「あ、僕の置けるところなくなったです」
ハンスが言った。
「あ、そうですね。それじゃ、僕がやりますよ」
(だけど、どう言い出したらいいんだろう? それに、できれば、お金を少し貸してくださいって頼んでみようか。でも、そんなの、虫が良過ぎる。散々世話になっておきながら、とてもそんなこと言えないな。けど、お金がなければとても外ではやっていけないし、いったいどうしたら……僕が働くにしても、当座のお金は必要だ。働いても給料もらえるのは一カ月後だし、すぐに見つからないことだってある。それに、彩香さんはお嬢様育ちだから、お金の苦労なんか知らないだろうし、本当に大丈夫なんだろうか)

「井倉君、酷いです」
ハンスがコマを放り投げて叫んだ。
「え?」
見ると盤の上のコマはほとんど井倉の白いコマで埋め尽くされている。しまったと思ったが遅かった。
「井倉君、ほんとは強いのに、わざと弱い振りしてたですか? それとも、こないだ、僕が君にしたことへの復讐ですか?」
「いえ、そんなことは……」
「だったら、どうして……!」
ハンスは涙を流して訴えた。

「井倉! ハンス先生をお泣かせするとは……。何をやってるんだ」
黒木がやって来て言った。
「ですから、これはその、ちょっとした偶然で……そう。偶然ですよ。だから……」
井倉は必死に言い訳した。
「違います! 井倉君は、心の中で笑っていたですよ。きっと僕のこと……」
彼は駄々っ子のように泣きじゃくった。
「違いますってば……僕はただ……」
そこへ美樹がやって来て静かに言った。
「わたしが頼んだのよ」
「え?」
呆然としている彼の隣に座ると、美樹はその背をやさしく撫でた。

「そう。わたしが彼に頼んだの。だから、井倉君は悪くないのよ。彼はただ、あなたのことを傷付けないように気を使っていただけ……」
「美樹ちゃん……」
「でも、もういいわよね。井倉君だって疲れるでしょ? わざと負けてやるの……」
「それは……」
井倉は焦った。
「やっぱりわざと負けてたんだ!」
ハンスの瞳に涙が溢れる。

「美樹さん……そんな言い方したら、先生が……」
「いいのよ。いつまでも甘やかしておく訳には行かないの。それに井倉君だって、ずっとここにはいられないのでしょう?」
「美樹さん……」
(彼女は知っているんだろうか? もしかしたら彩香さんに聞いて……。それとも……)
どちらにしても、言うのは今だ。
井倉は軽く唾を飲み込むと、思い切って告げた。

「僕は、明日、彩香さんと駆け落ちしようと思うんです」
「駆け落ち?」
そこにいた全員が彼を見つめた。壁に垂れ下がっているハンペルマンが目を見開いたまま、逆さまに笑っている。
「はい。明日の4時に決行しようと思います」
井倉の決意は固いように思われた。

「よし! それでこそ男だ。しっかりやれよ」
黒木がばんとその背を叩く。
「男? そういう言い方、今の時代では合わないんじゃないかしら?」
美樹が柔らかく反論した。教授は軽く咳払いすると静かに訂正した。
「いや、何。これから若い二人で力を合わせてやっていくというのは実にいいことだと思いましてね」

「でも、SPはどうするんですか?」
ハンスが涙目をこすりながら言った。
「あ……」
井倉はすっかり忘れていたのだ。彩香には常に彼女を監視し、いざという時には護衛するためのシークレットサービスが付いている。彼らを出し抜くことは、そう簡単には行かないだろう。

「強引に突破しちゃえば?」
美樹が言った。
「いいえ。それほど甘くはないですよ。それに、そんなことをしたら、ことが大げさになってしまう。厄介事になったら面倒です」
ハンスが言った。そういう非常時の判断となると、彼は冷静にできるのだ。それが美樹にとっては不思議だった。
「それじゃ、どうするの?」
「囮を使いましょう」
ハンスが提案した。

「囮? しかし、どうやって……?」
黒木が訊く。
「有住さんはまだ、そのことを知らないのでしょう?」
「え、ええ」
「なら、いいことがある」
ハンスはすぐに彩香を呼んで来るように伝え、その間に何人かの友人へ電話を入れた。

そして、井倉に伴われてリビングへやって来た彩香にハンスが言った。
「僕達は全面的にあなた方を応援します。まずは、お父様に電話を入れてください。内容はこうです」
ハンスに説明された通り、彼女は父の書斎にある電話に留守番メモを入れた。
「お父様、わたしは明日フリードリッヒ先生とドイツへ発つことに致します。彩香の我儘をお許しください」
受話器を置くと、彩香が訊いた。
「これでよろしいですか?」
「はい。上出来です」
ハンスがにこりと頷いた。

「でも、そんなことしたら余計に監視が強くなるのではありませんか?」
井倉が不安そうに訊いた。
「それが狙いです。任せてください。きっと君達を自由にしてあげます」
自信満々に宣言されると、井倉も少しほっとした。これまでいつもそうだったように、ハンスは何でも強引に通してしまう。時にはそれが、少しばかり暴走してしまうこともあった。が、結果的にはどれも皆、良い方向に転がって行く。
「僕は、先生を信じます」
井倉の言葉に、彩香も頷く。

その後、集まって来た者達とも念入りに打ち合わせを行った。
作戦の概略はこうだった。
翌朝、彩香に化けたハンスとフリードリッヒが一緒に家を出る。そうしてSPを引き付けておきながら、その隙に井倉と彩香は裏口からそっと家を出て行く。その際も、念には念を入れて、マイケルや黒木にも協力してもらい、変装した彼らも玄関から出て行き、様子を見るという周到な計画である。その夜、井倉達を寝かせたあとも、ハンス達は綿密な打ち合わせを続けた。


そして、翌朝、6時30分。まずフリードリッヒとハンスが連れ立って家を出た。
元々線の細いハンスは、彩香と同じくらいの身長で、化粧をして女性物の衣服を着てしまえば、遠目にはちょっと見わけがつかないくらいだった。そのことを一番自覚しているのもハンス自身だった。彼は彩香から服や帽子などを借り、携帯も借りた。彼らがGPSをチェックしている可能性が高いからだ。そして、思った通り、距離を開けつつもSPの車が付いて来た。
「よし。喰いついた。このまま空港までドライブしてもらおう」
彼らはタクシーと電車を乗り継いで空港を目指した。

井倉と彩香は最後にこっそり家を出た。誰も彼らを追って来る者はいなかった。
「彩香さん、大丈夫ですか?」
「何が?」
「その、僕なんかと一緒で、本当によかったんですか?」
「何よ、その言い方。わたしが駆け落ちの相手では不満だとでも言うの?」
「いえ、とんでもありません。僕にとっては、あまりに夢のようだから……。信じられなくて、その……」
「そうやっておどおどする癖、やめなさいよ! わたし、そういうの嫌いなの」
「すみません。ただ、彩香さんは、僕なんかじゃなくて、もっと強くて自信に満ちたタイプの方が好みなんじゃないかなと思っただけです。たとえば、ハンス先生とか……バウメン先生とかの方が……」

「馬鹿みたい」
彩香はつんとして言った。
「あの二人はあくまでも先生じゃないの。恋人にはなれないわ」
「恋人……」
井倉の心はキュンと跳ねた。
(僕のこと、恋人って……?)
「彩香ちゃん……!」
井倉は感激のあまり涙で世界が滲んでいくのを感じた。

「馬鹿ね。何めそめそしてるのよ? これから何処へ行く?」
「そうですね。できれば、誰も知らない町で、小さなアパートでも借りて、それから……」
当座の金は、美樹が用意してくれた。

――これは、あなたが家で家政夫として働いてくれていたお給料なの。だから、心配しなくてもいいのよ

彼らはいつか井倉が独立する時のためにきちんと考えていてくれたのだ。それに対しても涙が出た。
(これでは、とてもハンス先生のことなんて言えないや。僕も随分泣き虫になっちゃったから……)
二人は宛ても無く東京方面へ向かう電車に乗り、窓から見える景色に別れを告げた。


その頃、ハンス達は空港へ向かう電車に乗っていた。
「それにしても驚いたよ。まさか君の方からそんな格好をするとはね」
フリードリッヒは女装したハンスをエスコートして囁く。
「僕だって好んでしてる訳じゃない」
「でも、素敵だよ、フロイライン」
「黙れ! このあと、一言だって口を利いてみろ? 確実にあの世へ送ってやるからな」
電車はほどほどに込んでいた。が、彼らは座席に座れたので、ハンスは仮眠を取ると決め込んで瞼を閉じた。SPの男は二人。一人は車でこの電車を追っている。そして、もう一人は隣の車両に乗車していたが、何かあれば飴井達が阻止してくれる。もしくは緊急の連絡が来るように手配していた。


やがて、彼らを乗せた電車は国際空港へ到着した。SPの男達はまだしっかりと付いて来ている。ハンスはつばの大きな帽子をかぶり直すと言った。
「せっかくここまで来たんだ。おまえ、ドイツへ帰ったらどうだ?」
「それじゃ、君も一緒にどうだい? このままドイツへ着いたら、マスコミが黙っていないだろうな。あのショパンコンクール優勝のフリードリッヒ・バウメンが日本から花嫁を連れて帰ったという記事が雑誌やテレビを賑わせるだろう」
彼は相変わらず爽やかな笑顔を向けて言う。

「……おまえ……僕の正体を知った上で、そういう口を利いているのか?」
ハンスが低く呟く。
「ああ、知ってるよ。君はコンクールを嫌って公には姿を見せようとしないけど、真に実力のあるピアニストとして高い評価を得ている。そして、今はお兄さんと共に国際警察に所属してるんだ。何が君をそうさせたかは知らないけれどね」
「ふっ。大したもんだ」
呆れたようにハンスは言ってカウンターを見た。

「パスポートは持ってるか?」
「ああ」
「上等だ。さあ、ルフトハンザのカウンターまで来たぞ」
ハンスがそう言い掛けた時、
「お嬢様」
いきなりSPの一人に腕を掴まれた。
「さあ、お屋敷へ帰りましょう。お父様が心配しておられます」

「へえ。どのお父様だって?」
ぱっと振り向いて帽子を取ったハンスが笑う。
「な……! 貴様は……」
「彩香お嬢様は何処だ?」
二人の男は両脇を囲むように立って言った。
「さあね。僕はこのフリードリッヒを送って来ただけだからね」
「何だと?」

「なら、何故そんな格好をしている? それはお嬢様のワンピースだろう」
「涼しくていいじゃないか」
「変態か? 貴様」
大柄で坊主頭の男が目を剥いた。が、もう一方の細身の男が注意する。
「ここではまずい。目立ち過ぎだ」
「そうだね。向こうの静かな方へ行こうか」

ハンスが男達を誘導し、ラウンジの脇にある洗面所と階段のあるコーナーへ入った。
「改めて訊く。お嬢様は何処だ?」
細身の方が訊いた。
「知らないね。まだ、僕の家にいるんじゃないのか?」
「馬鹿な! 昨夜は確かに、お嬢様本人から電話があったんだ。ヘル バウメンとドイツへ行くとね」
同行して来たフリードリッヒを睨んで言う。が、彼は首を横に振ってゼスチャーした。
「私、知りません。そんなこと、初耳です。何かの間違いじゃありませんか?」

「何だって? そんなことはない。あれは確かにお嬢様の声だったぞ」
坊主頭が凄む。
「盗聴か。お嬢様にはプライベートもないという訳か。可哀想だね。今度、彩香さんに警告してあげようっと」
ハンスが澄まして言った。
「貴様……!」
坊主頭が低く呻いた。

「やる気か? よした方がいいんじゃないのか? こいつは空手の有段者だそうだよ」
ハンスがフリードリッヒを指さすが、彼はうしろへじりじりと下がって行く。
「相棒は逃げちまったぜ」
坊主頭の男が拳を繰り出す。ハンスは軽く身を捻って、攻撃をかわすと言った。
「やめとけよ。あとで仕事に支障が出ても知らないぞ」
「貴様……!」
もう一人の男も掴み掛かった。が、ハンスはその男の脛を蹴り、前腕を叩いた。グキッという低い音と共にそいつが顔を顰めて蹲った。

「あーあ、やっちゃった。ちゃんと労災には入ってるんだろうね?」
「余計なことを……」
坊主頭が身構える。ハンスよりもずっと体格のいいその男は武道の有段者らしく隙のない構えを見せた。
「お嬢様のために24時間ずっと貼り付いていたんじゃ身が持たないだろう?しばらく休暇を取った方がいいよ。何なら僕が有住さんに交渉してやろうか?」
「ふざけるな!」
間髪入れずに攻撃して来た男の懐へ飛び込むと、ハンスは胸を突き、腕を捻り上げて膝蹴りを決めた。
「ぐぇっ!」
脇腹を蹴られて、男はぐったりと動かなくなった。

「き、貴様、何者だ?」
折れた腕を押さえ、へたり込んでいた男がハンスを見上げて言った。
「知ってるだろう? ただのピアノ講師さ。そんな目で見るなよ。スカートの中を覗くなんていやらしい奴だね」
そう言うとハンスはその男の顎を蹴り、後頭部を一撃して沈黙させた。そして、男達を階段の下へ転がした。

「さてと」
ハンスは掌を払うようにすり合わせるとフロアの方へゆっくり歩いて行った。
「へえ。君って強いね。二度惚れした」
「殴るぞ!」
ハンスが睨む。が、ドレス姿では様にならない。

「あーあ。ヒールの靴なんか履き慣れないから、足が痛くなっちゃった」
「おぶってやろうか?」
フリードリッヒが笑顔で言った。
「絞め殺されたいのか?」
ハンスが睨む。
「いけないな。悪い言葉ばかり覚えて困るって美樹さんが言ってたぞ」
「美樹ちゃんが?」
たちまち穏やかな表情に戻るハンスを見て、フリードリッヒが笑う。

「ところで、あの連中は大丈夫なのか? まさか、ほんとに死んでなんかいないよな?」
「平気だよ。ちゃんと加減したからね。そんなへまはやらない」
「で、どうするんだ?」
「カウンターへ行く」

言葉通り、ハンスは手近なそれへ近づくと言った。
「あのう、そこの階段の踊り場に人が倒れています。私が通り掛かったらすごい音がして、振り向いたら、男の人が二人、上から落ちて来たんです」
ハンスの演技は完璧だった。それを聞いた受付嬢が急いで様子を見に行った。それからすぐに救急車が呼ばれ、慌ただしく人が行き交った。
その喧騒に紛れて、ハンス達はそこから遠ざかった。

「今、そこで聞いたんだが、フランクフルト行きの便に一つ空きがあるそうだ。私は一旦ドイツへ帰るよ」
「ほんとか?」
ハンスが信じられないという顔をした。
「実は、事務所の連中がうるさくてね。いつ帰って来るんだとしつこくメールして来るんだ。来週、ミュンヘンでのリサイタルが控えてるものでね」
「そりゃ、帰らなくちゃ悪いだろう」
「まあ、私の実力なら、二、三日前に戻れば十分なんだが……。みんな心配性でね。でも、それが済んだら、すぐに戻って来るよ。2カ月後には日本でツアーをすることになったからさ」
「そうか。帰ると決めたんなら早くしないと……チケットはもう買ったのかい?」
「いや」
「それはいけないな。よし。選別だ。僕が買ってやるよ」
ハンスはカウンターへ走った。


出発の時間になった。
「それじゃ、しばしの別れだ」
「ああ。元気でね。もう戻って来なくていいから……」
フリードリッヒは名残惜し気に彼を抱き締め、何度もその頬にキスして来たが、別れられる喜びで、ハンスは何も抵抗しなかった。
「SAYONARA!」
フリードリッヒは覚えた日本語で別れを告げた。
そうして彼は本当にドイツへ帰って行った。

「さよなら……」
ハンスは空に向かって呟いた。水色の空に反射する銀色。空港からは飛行機が次々と飛び去って行く。
「さよなら……か。何だか寂しい響きだな」
背後では救急車のサイレンが鳴っていた。


その頃、井倉達は銀座通りを歩いていた。
「彩香さん、早く東京から離れましょうよ。ここはあなたのお父様のお膝元だし……。できれば、もっと田舎の静かな街へ行った方が安全だと思うんです」
「何言ってるの? 人が大勢いた方が目立たないわよ」
彩香が言った。
「それはそうかもしれないですけど……」
さきほどから、彩香が買い物した荷物を持たされていた井倉はだんだん不安になっていた。

「それに、この荷物……駆け落ちするには多過ぎなんじゃ……」
「当座に必要な着替えや何かでしょう? それとも、あなた、わたしに着の身着のままでいろとでも言うの?」
きつい目で睨まれて、井倉は首を竦めた。
「いえ、そんなことは……」
「なら、黙って付いて来なさい!」
「はい」
(やっぱり彩香さんには無理なんだ。はじめからこんなことをしていたら、すぐに経済が行き詰まってしまう。クレジットカードや銀行のキャッシュカードを使えば、すぐに所在だってばれる。いったいどうしたら……)

その時、向かいから近づいて来る男の顔を見て、井倉はいやな予感がした。
(浮屋だ。けど、あいつはCIAに連行されて行ったんじゃないのか?)
正面から視線が合った。彩香はあからさまに顔を顰めた。そして、進路を変えた。が、浮屋は構わず彩香のあとを追って来た。
「やあ。彩香さんじゃないですか。こんなところでお会いするとは、僕達、よほど縁があるんですね」